利根川放水路について少し調べてみた
1年ぶりに更新ですが、かなりローカルなネタです。
9月11日、いつものように Twitter のタイムラインを見ていたらこのようなツイートが流れてきました。
利根川放水路のお話 http://t.co/RzOjlXmzee こういうのをみてグッと来るようになったあたり、我が事ながらだいぶん洗脳された印象。
— nyampire (@nyampire) September 11, 2013
私もグッと来ました!
この記事によると1939年(昭和14年)に策定された「利根川放水路」という川が計画されたようで、現在の県立船橋高校付近から花輪インターチェンジ付近までの掘削工事と、同時に京成電気鉄道の橋梁工事も行われたそうです。また、工事が完全に中断してしまったのが1945年(昭和20年)でそれ以降は工事は行われず、2005年11月に計画は断念されたと Wikipedia に書いてあります。
リンクをたどると、こんなページを見つけました。
どうやら利根川放水路の工事に伴って作られた橋脚がまだ残っているというのです。 そこで他の橋脚や掘削工事のあとはどうなっているのか少し調べてみました。
まず参考にしたのは国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス。
最も橋脚などがはっきり写っているのは工事が中断されてから 2年がたった 1947年 9月に米軍が撮った写真です。
それに線を入れるとこうなります。
黄緑色の線は道路、水色の線は鉄道、橙色の線は放水路、橙色の矢印は例の橋脚です。
橋脚の前後に 1組の広めの盛土と奥の船橋方に狭い盛土が 1箇所あります。
手前側の広い盛り土と橋脚は千葉街道用、奥の盛り土は京成線用で作られたものではないかと推測できます。
この追加した線を残して Google マップと合成してみます。
うむむ…千葉方の広い橋脚と市川方の細い橋脚以外はすべて国道296号線の中に入ってしまっています…。 細い方はホテルの駐車場にかかっているのですが、ストリートビューで見る限りでは消失しています。
ということで現存しているのは織戸自動車整備工場横のみということになります。
1947年(昭和22年)撮影の上の写真には盛土が撮影されていますが、1958年(昭和33年)の下の写真には盛土は撤去され成田街道が千葉街道に接続されているのが確認できますので、ほとんどの橋脚と盛土はその間になくなったと考えられます。
橋が完成した後は千葉街道も京成線もさらに形が良くなったのではないかと思い、線を描いてみました。
予想通りカーブが無くなり良い感じになっています。盛土撤去後にこのような形にならなかったのはやはり成田街道との接続のためではないかと思います。もし、橋脚を作る前、上の図ように直線であったならば、橋を作るために仮の迂回経路を作り、そのまま定着してしまったことになります。
ちょっとしたカーブにもこのような歴史があると考えると面白くなります。
(おわり)
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