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12月 4 15

永久堡塁がどこにあるのか推定してみた

書いた人: tsuhi

こんにちは tsuhi です。

久しぶりの更新です(ブログの更新自体数年ぶりな気が…
さて、いつも見ている掲示板で船橋アリーナ付近に大きいマンションができるという投稿があり、その中に永久堡塁(えいきゅうほるい)について記述がありました。

永久堡塁とは何か簡単にまとめると、日露戦争後に当時の最新技術が使われていて強固だったソ連の要塞を分析して作られたという演習用の要塞だそうです。
船橋市や習志野市には意外にもこのような遺産が多くあり、支那囲壁砲台などが有名です。

その永久堡塁はウィキペディアによると、「1962年(昭和37年)、日本住宅公団によって始められた習志野台団地の造成工事に伴い埋められることになった。」とあり、50年近くその場所にあったようです。

1962年というといまから50年以上前、この永久堡塁も作られてから100年近くになるわけで、地下に「ある意味」保存されていると知ってしまった以上、具体的にどこにあるのか気になってきたので調べてみました。

ではまず、前回の記事に引き続き国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスに活躍してもらいましょう。

これは埋め立てほやほや?の1966年08月に国土地理院が撮影した航空写真です。現在も残る建物が写っているので参考資料として載せておきます。

1966年の習志野台

緑色の文字で現在の目印となる施設の名称を書き込んでみました。すでにこの頃は習志野台団地や日本大学ができていて北習志野駅から区画整理が進んでいることがわかります。永久堡塁は習志野台第二保育園の近くに埋まっているとのことで、この保育園付近を拡大してみました。

1966年の習志野台

現在の習志野台第二保育園は高根木戸と北習志野方面を結ぶ道路と警察署から来る道路が交わる十字路の右下にあります。
1966年当時は団地は完成したものの保育園はまだできていなかったようです。ただ、この写真からは交差点右上に怪しげなくぼみがある以外は特に違和感はなく、具体的な位置を推定することはできません。

続いてさらに少し前の写真を確認してみます。
1966年より1つ古い写真として1960年11月に撮影されたものが見つかりました。たった6年前なのですが習志野台団地の建物どころか習志野台団地のバス通りすらできていません。

上の方にある高根台団地(高根公団)は道路の整備が終わったようで広い道路の筋が見て取れます。

1960年の習志野台

高根公団と新京成線のおかげでだいたいの位置は把握できると思います。
当時、写っている範囲内で新京成線で開業済みの駅は高根木戸駅だけで高根公団駅はこの写真の9ヶ月後、北習志野駅は前の写真が撮影される4ヶ月前の1966年4月に開業しています。

北習志野駅付近をよく見てみると現在の北習志野近隣公園から船橋東郵便局横の2車線幅のある道路の付近が田畑になっているのが見て取れます。郵便局付近は周りと比べて土地が低いので、昔は川が流れてその周りに田畑を作っていたのでしょう。
その田んぼを目でなぞると、右下に不思議な凹みを見つけることができます。地面を掘り下げて作った要塞…これが探していた永久堡塁です。

1960年の習志野台

拡大してみます。

1960年の習志野台

たしかに永久堡塁のようです。さらに12年前の1948年1月の写真を見てみます。

1948年の習志野台

こちらは米軍が撮影したものですが、1960年の写真と比較して明らかに掘り下げられている幅が広く、どうやら団地造成以前にも一部を埋め戻すというような処理が行われたようです。

さて、永久堡塁の場所を特定したところで現在の地図を重ねて見てみたいと思います。1948年の米軍が撮影した写真では目印が少なすぎるので1960年11月の写真を使っています。まず、1960年の写真から現在も残っていた気がする道路の交差点や新京成の踏切と思われるところに目印をつけ、その目印にGoogleマップのスクショを合わせるという手法をとりました。

目印を付けたところ

Googleマップのスクショを重ねたところ

だいたいの位置が合ったので、堡塁の位置を付けて、少し線を追加してその付近だけトリミングして比較してみます。
水色の線は田畑の中心付近で、周りに比べて土地が低くなっています。北習志野近隣公園内には子者清水と呼ばれる場所もあることから小川があったと推測できます。

線を追加したところ

Googleマップのスクショを重ねたところ

なるほど。たしかにウィキペディアの通り、保育園の近くにあったようです。
この画像からは習志野台団地の6-7-2と6-7-3の間付近にあったと推測できます。

最後に堡塁の部分を拡大してGoogleの衛星写真に合わせてみます。

1960年の写真で堡塁部分を拡大したところ

Googleの衛星写真に重ねたところ

堡塁の西側が少し道路にかかっているので過去の道路工事のときに何か見つかったことがあるのか気になるところです…。また、習志野台団地の6-7-2が他の棟と異なり、若干角度が付けられているのはもしかすると堡塁を避けたから?…なんて考えると、なんだかわくわくしませんか(私はしますw

(おわり)

9月 15 13

利根川放水路について少し調べてみた

書いた人: tsuhi

tonegawa_00
こんにちは tsuhi です。

1年ぶりに更新ですが、かなりローカルなネタです。
9月11日、いつものように Twitter のタイムラインを見ていたらこのようなツイートが流れてきました。


私もグッと来ました!
この記事によると1939年(昭和14年)に策定された「利根川放水路」という川が計画されたようで、現在の県立船橋高校付近から花輪インターチェンジ付近までの掘削工事と、同時に京成電気鉄道の橋梁工事も行われたそうです。また、工事が完全に中断してしまったのが1945年(昭和20年)でそれ以降は工事は行われず、2005年11月に計画は断念されたと Wikipedia に書いてあります。

リンクをたどると、こんなページを見つけました。

どうやら利根川放水路の工事に伴って作られた橋脚がまだ残っているというのです。 そこで他の橋脚や掘削工事のあとはどうなっているのか少し調べてみました。

まず参考にしたのは国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス。

最も橋脚などがはっきり写っているのは工事が中断されてから 2年がたった 1947年 9月に米軍が撮った写真です。

tonegawa_01

それに線を入れるとこうなります。
黄緑色の線は道路、水色の線は鉄道、橙色の線は放水路、橙色の矢印は例の橋脚です。

tonegawa_02

橋脚の前後に 1組の広めの盛土と奥の船橋方に狭い盛土が 1箇所あります。
手前側の広い盛り土と橋脚は千葉街道用、奥の盛り土は京成線用で作られたものではないかと推測できます。

この追加した線を残して Google マップと合成してみます。

tonegawa_03

うむむ…千葉方の広い橋脚と市川方の細い橋脚以外はすべて国道296号線の中に入ってしまっています…。 細い方はホテルの駐車場にかかっているのですが、ストリートビューで見る限りでは消失しています。
ということで現存しているのは織戸自動車整備工場横のみということになります。

1947年(昭和22年)撮影の上の写真には盛土が撮影されていますが、1958年(昭和33年)の下の写真には盛土は撤去され成田街道が千葉街道に接続されているのが確認できますので、ほとんどの橋脚と盛土はその間になくなったと考えられます。
tonegawa_05

tonegawa_06
橋が完成した後は千葉街道も京成線もさらに形が良くなったのではないかと思い、線を描いてみました。

tonegawa_04

予想通りカーブが無くなり良い感じになっています。盛土撤去後にこのような形にならなかったのはやはり成田街道との接続のためではないかと思います。もし、橋脚を作る前、上の図ように直線であったならば、橋を作るために仮の迂回経路を作り、そのまま定着してしまったことになります。

ちょっとしたカーブにもこのような歴史があると考えると面白くなります。

(おわり)

3月 18 12

Xperia arc が充電できないトラブルに – その3

書いた人: tsuhi

こんにちは tsuhi です。
 
前回の続きです。
2月10日に docomo ショップから電話があり、次の 2月11日に無事に Xperia arc が修理工場から戻ってきました。
この日に 1週間前に借りた次の 4つのものを返しました。 
 
・N-04C本体<MEDIAS Black>
・電池パック N27
・リアカバー N53<MEDIAS Black>
・FOMA 充電microUSB変換アダプタ N01
 
docomo ショップの店員さんからは「特に異常はなく、ソフトウェアを初期化した」と説明を受けました。
これはそのときに貰った「修理結果票」です。

 
「保守用物品の交換を行いました」と記載されているので店員さんに聞いてみたところ、ハードウェアの交換は一切行われていないとのことなので、ソフトウェアの「交換」(リカバリー)という解釈で良さそうです。 
 
その後、充電できない問題が再発しないか様子を見るため、アンインストールできるアプリはすべて削除して使ってみることにしました。
もし、ここで問題が再発した場合はアプリが原因ではないと断言することができます。
 
3回目 – 2012年02月13日
しばらく使っていたところ、2月13日にまた前回と同じ充電できない不具合が再発しました。
そこで 2月18日(土曜日)に docomo ショップに行き、端末の交換を要求することに…。
 
docomo ショップで 1時間待ったあと、店員さんに「これで 3回目なので別の端末に交換してほしい」と頼んでみると、あっさり別の端末に交換してくれました。
 
交換前は 2011年 2月製で、交換後は 2011年 8月製です。

image image
  
現在は充電できない不具合は発生せず、快適に使えています。
よって充電できないトラブルは端末の交換によって解消したと考えてよさそうです。
 
2月製と 8月製を比較しても電源ボタンの大きさなどは変わりませんでした。
ただ、私が使っていた 2月製の端末にはドット欠けやボタンの接着不良(ミシミシと音が出る)があったので結果的には交換して良かったのかもしれません。。
 
おわり

3月 5 12

Xperia arc が充電できないトラブルに – その2

書いた人: tsuhi

こんにちは tsuhi です。
 
前回の続きです。
Xperia arc を修理に出して代替機として MEDIAS N-04C を docomo ショップで借りました。
今回の記事は MEDIAS N-04C のレビューが中心となります( • ̀ω•́ )✧
 
確認書4枚(故障受付票 1枚、故障受付に関する確認書 3枚)と封筒をもらい、次のものを借りました。
 
・N-04C本体<MEDIAS Black>
・電池パック N27
・リアカバー N53<MEDIAS Black>
・FOMA 充電microUSB変換アダプタ N01
 
借りる前に水濡れ、破損、コネクタの破損・腐食を確認します。
なお、借りた本体や部品を破損した場合は、あらかじめ提示された金額を支払う必要があり、たとえば、本体を破損すると18000円支払わないといけなくなります。

 

もっと読む…

2月 28 12

Xperia arc が充電できないトラブルに – その1

書いた人: tsuhi

こんにちは tsuhi です。

私が初めて買ったスマートフォンである、Xperia arc で充電できないという問題が発生しました。
これは電源供給をしてもバッテリー残量が減ってしまうという問題です。
原因は特定できなかったので本体の交換を行いました。交換してから同様の問題はまだ発生していませんので、解決したということでこの記事を書きます。

この問題は何度か発生し、3回DS(ドコモショップ)に行きました。やれやれ。

1回目 – 2011年10月05日
最初に問題が発生した日です。
このときはすぐドコモショップに行き、店員さんに「アプリとの相性の問題の可能性がある」と言われました。
まず、本人確認をして、電池パックのチェックを行い、その後問題は見つからないとのことで初期化しました。

このときは初期化しただけでしたが、ドコモのサーバーに「修理履歴」が記録され、また同様の問題が発生した場合、DSに行って「修理したことがある」と言えば全国のDSから今回の履歴を見ることができると説明されました。

2回目 – 2012年02月03日
10月のトラブルのことを忘れかけた時に、また発生しました…。
問題の内容自体は 1回目と同じで電源供給しても充電されるどころか、電池残量が減るというものです。
OSの「テストモード」アプリで電池の状態を見たところ、充電開始時の残量が「-1%」となっていました。
…完全に故障です。。

翌日の土曜日にDSに行って相談したところ、預かり点検となり 1週間修理工場に行くことになりました。
代替機は MEDIAS N-04C です。

ドコモショップではまた、アプリとの相性に問題がある可能性があると言われたのですが、2回目ということで預かり点検となりました。

続きます